風景論

すぐれた風景論の論考を読んだりして思うのは、
あれは一つの世界観の表現であり、
論述の積み上げに納得するかどうかということがもちろん大事だが、
その世界観に共感するかどうか、の方が本質なのではないかということ。

たとえば、ベルク風土論も非常に大きな「山」であるけれども、
唯一の山ではなく、隣をみれば他の「山」があり、ほかの論がある。
登りたい山かどうか、棲みたい山かどうかが大事だ。

で、
風景論を論じるのなら、当然オリジナリティが求められる。
その独自の世界観の表現には、もちろん独自のフレームワークが必要で、
論全体でその世界観が充分に表現されていなければならない。

もう一つ、やはり、神は細部に宿る、ではないが、
論の中で用いる「言葉」、
そして言葉をもちいる文脈としての「概念」に
「発明」的な新しさがなければ、風景論を論じる資格はないのではないか、
と思ったりする。

そこに至るには、世界観を発見する「感性」と「直感力」、
そこから「こじ開ける」、思考の「ねばり」や「しつこさ」、
他人に伝える「プレゼン力」や「表現力」、
など、トータルな知力がなければならないのだろう。
うん、結局は哲学なのかな。

僕はまだまだ風景論を語れるような世界観を育てられていないが、
来たるべき時に向けて、思考実験だけは欠かさないでおこうと思う。

 

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