「なんで風土なの? 風景じゃダメなの?」

先日の景観デザイン研究発表会において,タイトルにあるような趣旨の疑問を葉先生から頂いた.
これまでの風景論の枠組みで説明できることではないかのか,という趣旨だった.
そのときには,表象としての景観と,基盤としての風土の違いから説明したのだが,
改めて考えた.そのメモを公開する.
 
 
「なぜ「風土」なのか」
 
・都市基盤を扱う概念としての風土 + 人間の生活基盤としての風土
都市基盤や,都市を形作る計画風土を扱うことまで視野に入れるとき,
また,時間軸をいれるとき,風景と景観の概念には限界を感じる.
風景という現象的事象は,表象という印象が強くなってしまい,
景観という実体ですら,都市の表象という印象が強くなってしまう.
また,都市の質的向上の倫理的側面を話すときに,景観だと個人的価値の
(もしくは小規模集団の)問題として扱われがちであるが,風土は,
人間活動やわれわれの生活の基盤そのものであり,それは価値づける
以前の前提としてそこにある.
風土は,風景を時間的にも拡張された集合的価値として価値づける,もしくは
問題づける基盤である.そして,風景の価値は,風土を基盤にして価値づけられる
べきであると考えている.
 
また,「なぜ日本の都市はこうなってしまったのか」という疑問に対しては
計画風土を理解することが不可欠である.そこには景観の議論では出てこない.
景観に対する無理解・無意識を論じるには,風土を論じる必要があるというのが
僕の一つの答えだ.
 
 
特に,景観の議論をしていくと,個人的印象や地域戦略の位置づけで
「景観がよければいい」という議論になってしまいがちで,
シナリオを作る際に,景観Aと景観Bの差をどう論じるか,というときに,
有効な上位概念がほしい.歴史や真正性や愛着,生態系など,切り口ごとに
議論してもよいが,そうすると価値観の闘いになってしまう.
価値観の闘いは結構だが,それを支える理論はどこに置くべきか,ということだ.
 
 
風景・景観の議論は成熟しているし,論点も掘り下げられているが,
それは景観分野を土台として考えている人だけが,共感によって共有していること
であって,それもまだ十分には外部言語化できていない.
今の状態は,複雑な景観学の体系は,それ以外の専門家の人たちには理解されていない.

で,都市政策や地域政策の土台で議論していかなければならないとき,外部言語化の
一つとして,風土という概念が有効だと考えた.
なぜなら,風土という切り口からはそもそもの都市基盤のあり方を論じられるからである.
さらに,人間の存在論が主張の根拠となっていること,計画に時間の概念を入れ込めること,
から,規範論の議論へと展開しやすい.
 
逆に,表象である景観だと,論じる/論じない,の選択が生じてしまい,結果,議論され
なくなってしまう恐れがある.
風土という上位概念をしっかり位置づけて,景観を再定義していく,という
アプローチの方が,学術的にだけでなく,政策的にも有効ではないかと考えた.
 
「それは君の景観概念が狭義だからだ.拡張して考えるべきだ」という批判は甘んじて受け入れる
が,実際のところ,景観概念の理解が,研究者によってすらバラバラの状態であれば,議論は前には
進まない.僕はそのジレンマから抜け出したい.
  
 
ただし,風土としての都市を,風景・景観という現象から考えていきたいというスタンスは変わらない.
その位置づけを一段掘り下げたところから考えたいということだけである.

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