内なる声

内なる声と呼ぼうか,まだ言語化に至っていない,経験からうまれる思考の感覚を,
概念づけ,論理を構築し,外部言語化するというのは,古くからの哲学者のやり方だ,

今日,とある映画のラストシーンだけをみて,何かしら不思議な感覚が生まれた.
普段の無意識的な感覚を少し言語化することが出来そうなので,ここに書いてみる.
 
 
最初のキーワードは,「生きていることへの感謝」.
日常で普通に生活していては意識しないけれども,感覚が鋭くなったとき,つらいときに
ほっとしたとき,など,自分が生きていること,生かされていること,への感謝の念が
「しみじみと」わき上がることがある.それは誰でもあることだと思う.
そして.もう一度,日常に戻ったときにも,無意識ながらも心のどこかに「感謝」をもち
つづけているのだと思う.
(言葉に書いてしまうと陳腐だが,感覚としてはとても強いものだ.)

この生きることへの感謝って,自分をとりまくものへの感謝である.
それは,自分をとりまくものから感じる恵みや慈しみへ応える素直な気持ちである.
それは「愛」といえるかもしれない.

自分をとりまくものへの感謝って,自分が生きる場があってはじめて生まれるのではないかと思う.
場とは,家であり,ふるさとであり,今住んでいるまちであり,もっといえば地球.
そして,場から,自分自身を再確認する.

 
  
これをふまえて問いたいことは,
自分が生きることに感謝する感覚と,生きる「場」への感覚って,
とても近いんじゃないのか,ということ.
生きることへの感謝が大きい人ほど,生きる場への愛着があり,
その経験を多く積み重ねるほど,その場への愛着も強まるんじゃないだろうか.
逆に,生きることへ感謝しない人は,生きる場への愛着もないんじゃないだろうか.
 
 
そして,自分の生きる場が「風景」というかたちで目の前に現れることによって,
その慈しみの気持ちや感謝の気持ちと重ね合わせる.

その感覚が意識できるまで強い場合もあれば,意識できない場合もある.
意識できないとしても,日々気持ちを重ね合わせている,のだろう.
 

ふと思った.
(自分以外の)人は,どれほど,自分が生かされていることに感謝しているのだろうか?
そして,人は,どれほど,風景を慈しんでいるのだろうか?
自分の感覚は,普遍的なものなのだろうか.

これからも少しずつ考えてみたい.

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