風土の問題の新たな局面

昨日、「庭」の場所論 講演会&ディスカッション 
というイベントにコメンテイターとして参加させていただいた。
午後丸々と懇親会、2次会と、大変深く、広範な議論が展開されて、非常に有意義だった。

議論するトピックを挙げればきりがないのであるが、ひとつ、田路先生が以前からおっしゃって
いる、都市における超越性の問題、を改めて考える機会になった。
(あまり僕がべらべら書くと問題なので、いずれ出る本を期待してください)

超越性とは、意識や経験などの主観性の外にあることだ。
物は、内在的であると同時に超越的であるという二面性を持っているが、
地球環境問題、原発問題など、「不透明」で「汲みしがたい」人間の意識・経験の領域を
越える物の問題が、都市の重要な問題になっている。これをどう考えるか、
と田路先生は問題提起されていると思う。
 
現代の科学技術の知識の領域を越えている問題なのだ。しかし、そこに「ある」。
この問題は、確実に我々の意識を支配し、現実の都市空間を形成している。
そういった意味で、通態的現実であり、風土の問題でもある。
 
  
この問題を考えていて、ふと思った。
我々が、地域をどうしたい、こうあるべきだと、(美の問題ではなく)倫理の問題として
考えて実践するとき、難しい理論を理解し存在論的意義を見出すのに至らなくとも、
それは現実の態度としてある。
価値の問題は主観的である一方で、主観では捉えられない問題を含んでいる。
なんとなくの(ゆるやかな)共感や、むしろ「行為」が先んじる。
行為の背景の理念、その理念の基盤の意識、、、、が、実はよくつかめないものなのだ。
それはそこにあるはずなのだが、静態的、実体的な実体として存在しているのではなく、
運動し変化する世界において、現れる動詞的本質というものなのだろう。
 

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