環境の解釈史としての風景史

風景は、環境の鑑賞でありますが、
さらに広くいえば環境の「解釈」であるといえます。
鑑賞にとどまらない解釈という点から風景ととらえれば、風景論の射程はぐっと広がります。

景観の歴史研究の醍醐味の一つは、大きくいえば、環境の解釈を読み解くという営為にあると思います。
歴史上、人々が、それぞれの価値観や世界観で環境を解釈し、はたらきかけてきたわけですが、
自然地理的な条件を基盤にしつつ、その上に文化を積み重ねてきたわけです。
その積層のそれぞれに解釈的行為が積み重っているわけで、そこからは
いろいろな見方によって、さまざまに「風景」として引き出される、といえます。

たとえば、集落の立地や、気候風土や資源に適した生業の形態も、ひとつの環境の解釈及びその
結果としての営みと捉えられるわけですし、山や川などとも関連する信仰の形態やコミュニティの形態
も解釈の一つです。当然文学や芸術、庭や建築などの環境芸術はその最たるものですが、
城下町の築造なども、水利と地勢を読んだ上での環境の解釈なわけですね。
つまり、環境の解釈の発掘は、自然地理的方法、人文地理学的方法、近代以降なら都市計画史的方法など、
さまざまなアプローチが考えられます。
いずれにせよ日本には、解釈の積層としての、ものすごく豊かな風景資産が眠っているのでは
ないかと考えています。

遺物は発掘されます。
しかし、風景の積層があまり発掘されようとしないのは勿体ない。
遺物は考古学者が発掘します。風景の積層は誰がすべきのでしょうか。

「風景の持続性」は、僕の博士論文のときからもつ一貫したテーマですが、
風景が解釈的行為だとすれば、その持続とは、解釈の「連歌的」連続性なのではないかと考えます。

環境の解釈の積層を掘り起こすことは、単に環境の歴史を掘り下げることにとどまりません。
過去の解釈の積層は、現代の風景表現者(われわれにほかなりませんが)にとっては、
新たな風景の創造の源泉となります。
そういう点で、解釈の積層を掘り起こすことの現代的な意義は、非常に大きなものではないか
と思います。
以上のようなことを考えると「環境の解釈史」というような研究主題が浮かび上がってきます。

自然地理,人文地理,歴史,工学,環境学,これらを環境の解釈史=風景史という観点から包括できる
のではと密かに考えはじめています.

いま、風景論においてそうした観点が曖昧なままです。
一時期は東京論や地霊論などとともに大きな流れになりかけたのですが...。
今は、地に足のついた、しっかりした原論を論じることが必要なのかな、と考えています。

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