ミクロ-マクロのアプローチ

この間本郷で某お方と飲みながら議論していたことに触発されて少し考えたことを備忘録的に。

僕や同年代の世代、研究室では現象学的に景観を捉えるというアプローチで議論を展開していました。
確かに中村先生の、知覚を通じて環境世界を分節する「見分け」「言分け」のような考えが基礎として定着し、
今でも所謂第三世代とよばれる(仲間内で)研究者の仕事をみてみても、やはり人間を中心において、
環境との関係をどうとらえるかというアプローチをとっておられるように思います。
これはまさに現象学的アプローチな訳で、それが地域的スケールになったとしても、リンチ的な捉え方の延長にあるように思います。
この方法でさまざまな事象が説得力をもって説明できたため、相当に強固な基礎となったわけです。
未だに有力なアプローチではあり続けているのですが、一方では思想的拘束を生んだわけです。
この限界というか行き詰まりを端的に言うと、個人主観の枠という問題であり、
他者という現象や、認識の集合をどう扱うのか、という問題があるわけです。
「間主観」という概念でその枠を越えようという試みもありますが、なかなか難解でうまくいったかどうか分かりません。

一方で、都市空間というのは個人や社会の集合からなり、総体として扱う必要があります。
一部のエリートや文化人、計画技術者の理解の内での議論だけでは、計画論に展開できません。
(彼らは当然思想を持つ必要があり、ここに原論の必要性はあるし、彼らが牽引していた時代ではそれでよかったのかもしれませんが)
ここに、総体としての都市環境の中から、社会や文化の文脈をどう読み取るか、
どう価値として社会の中で共有するか、それをどう管理・改善するか、
さらには都市環境全体をどう方向付けていくか、という問題がより重要になってきているように感じます。
主体の視点(主観)にとらわれず、集合的意味を直接扱うということです。ただし主観は基礎になります。
ミクロ景観論とマクロ景観論のように言えるかもしれません。

前者と後者には、アプローチに大きな差異があります。
が、根っこではつながっているので、この違いを意識して、相互に影響を及ぼし合うべきでしょう。

ちなみに僕は前者からはじめて、途中から後者のアプローチをとりはじめたということになりますが、
未だに前者のアプローチの有効性を探ってはおり、その両者をどう関係づけるかということを日々
考えております。
個人的には土木景観計画論の一つのミッションは特に後者の充実を図ることではないかということを
思いはじめています。

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