オーラルの編集という手法

Binセミナー17 での議論ののち、ご講演された中村さん(ウィスコンシン大)や羽藤先生、
松村先生(大阪大)とやりとりしていて、計画のための調査のあり方についていろいろ考えている。

中村さんが参加しているプロジェクトは、オーラルヒストリー調査として、フィジカルな環境の意味の読み取りというのを契機として、生活総体を把握するような多角的な聞き取りをひたすら行うという大変興味深い報告だった。ディスカッションもいい創発が生まれ、羽藤先生の場づくりのセンスを感じた。
その後のやりとりで松村先生が生活総体を聞き取ることの意義、生活総体像を計画に練り上げることの重要性を指摘されて、それを頭のなかで繰り返し考えている。
 
これまで景観の話は表象論として捉えられる側面が大きかったし、実際そうするしかないほど扱いが難しいというのがあったと思う。ただ表象化以前の暗黙的な実践のなかに(現象学的には唯一中心の)生活があるわけで、声無きなか、そういった生活の総体をいかに計画論のなかで扱うか、ということが大事なんだと改めて感じている。
少なくとも、そういったことを見る視点・読む視点を掘り下げることが必要であるし、言語化することが必要だろう。
 
視点を変えれば、オーラルデータを集めて編集をすることは、集団表象を形成する要因にもなり得る。むしろそこを積極的に扱う・デザインする、ことが風景づくりの方法として成り立つのでは、と考え始めている。
 
リンチが知覚環境の計画で行っていたような手法は、ある意味研究者が外から記述するに過ぎなかった。しかし、研究者が地域の中に入って、生活像を捉え、積極的に編集、表現することで、住民の気づきを誘発し、知覚環境そのものを変容させる。そんなことが計画論として可能なのではないか、ということだ。
 
 
実際に今進めているいくつかのプロジェクトをそういう視点で捉え直したい。

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