フラット化する風景の行方
今日,篠山のとある古本屋で『美術手帖』特集「風景新次元,スーパーフラット・ランドスケープ」(2000年9月号)と出会う.
そこには「なにもない風景が,いま気になる」とある.
数百年をかけて築かれた,意味のネットワークで満たされた風景の意味は解体され,
むしろまったく別の次元で,個人の新鮮なまなざしによって,切り取られ据え置かれる風景.
自由だが無責任な視座によって,次々と生まれ出される新たな風景の表現は,
次世代のスタンダードになりうるのか? ストックとなりうるのか?
それともフロー,新たなまなざしを生む触媒,もしくは消費財でしかないのか.
新たな風景が生まれる一方で,多かれ少なかれ教養の喪失も進んでいて,
また世代間の地域史や社会的記憶の引き継ぎもなかなかうまくいかないまま,
脈々と引き継がれてきたその地域固有の風景の意味は,序々に失われつつ
あることは否めない.
風景をつくるのは人だ.
人の意識が変わることこそが,世界が,風景がフラット化する原因となる.
そんな状況のなかで,専門家としての立場を考えなければならないと自覚する.