詩人になりたかった。ときもあった。

さてさて。ようやく「景観研究を悩む」も終わって、少しだけ肩の荷がおりた。
とはいえ、9月中に招待論文の原稿を上げなければならないので、これからも
気が抜けないな〜。早く歴史の研究したいのだけど、今年は計画論ばっかり
やってる(しかも論文にならない勉強みたいなもの)気がする。
 
 
話が急にかわるけど、
タイトルにあるように、大学2、3年生くらいのときは僕は小説家になりたかった。
たいして読まないくせに、なんか無性に書きたくなって、半年くらいかけて
200頁超のを書いたりして。もう10年くらい前か。
近代文学の(漱石の)大学の先生のところに飛び込みでもっていって、
「読んでください」って原稿を渡した。そしたらご丁寧に感想をいただいて。
「期待せずに読んだが面白かった。筋があるから続けてください。」
と言っていただいた。

だけれども、すべてを吐き出してしまった僕にはもう書くことはなくなって。
時折湧きでてくる感情を詩として表現するくらいだった。

市倉宏祐さんの『ハイデガーとサルトルと詩人たち』とかを訳も分からず読んで、
【詩人であること】がすなわち【人間であること】ということに共感して(しすぎて)
「まあ、ドロップアウトしても好きに生きるか〜」、なんて思ってたときに、
「景観」っていう学問分野に出会ったって言う訳で。

で、当時僕は文学少年だったから、文学的観点から景観を読み解くということを
やり始めた訳です。しかも怖いもの知らずというか、半ば人生捨ててたので、
何でもいいや、って感じで。とりあえず好きなことに懸けてみるか、と、やった。

で今に至る。本質的には8年くらい前と今とは少しも変わらない気がする。
で、周りの友人たちも8年くらい前と今とは少しも変わっていない気がする。
そう考えると22、3くらいに人って決まるのかな〜なんて思ったりもする。

たぶん40になっても、50になっても変わらないんだろうな〜、って、
周りのベテランの先生方をみても思う。

あとは、どんだけ走り続けられるか、なんだろうね〜。 がんばろ。

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