つれづれと

 

京都造形大の庭園学講座で「文人の住まいと隠遁の風景」を講じるにあたって原稿を書いた。京郊の山のほとりに住んだ近世初期(寛永前後)の文人たちが、いかに風物、風景を見出したか、というのが主題だ。博論の6章をもとにしているが、これを学会で講演発表したとき、東工大の齋藤先生から、なぜ若いあなたがこんなテーマに興味をもったのか、ときかれたことを思い出した。
ふりかえれば、僕が中高校生の頃、五木寛之さんの「生きるヒント」がベストセラーになり、僕も高一のときに読んで、それから仏教思想に関心をもっていろいろ本を読んだことや、10代後半には、当時よく読んでいたヘルマン・ヘッセの「詩人になれないのなら、何にもなりたくない」の言動に共感し、理想主義的考えをもち、何らかのかたちで物書きとして生きたいと思っていたことが背景にある。
いかに生きるか、というテーマは十五歳以来、自身の最も重要なテーマであり、もんもんと悩み考えつづけていたのだが、大学三年前期のトルコ・ワークキャンプで運命が変わり、自分個人の心を満たす=自己満足的生き方では結局は満たされないと気づき、自分の人生の満足のためにも、人に感謝される社会に役立つ仕事をして生きると決めたのであった。このとき内向き思考から180度裏返しになって外向き思考になり、以後、きわめて楽観的性格を得て、今に至っている。

そうしたこともあって、先人の隠者らの生き様に憧れがあって、より知りたかったというのが研究の根本にある。しかし実際、日本の風景史においてもきわめて重要な位置付けにあるのである。17世紀当初に流行した文芸は、600〜1000年以上離れた中国や平安時代の日本の文化・文芸リバイバル運動でもある。漢文の素養が失われてしまったとはいえ、現代もそうなり得る可能性は少なからずあると思う。

多くの先人が書き残しているように、(究極的には)人生はひまつぶしだ、という考えは今も変わらないが、せっかくなので面白いことをしたいとは思っている。社会の中で自己満足に終わらず、面白いことをしようと思ったら、それなりに努力しなければならない。なので、晋代、唐代の詩人のごとく、山中に住んで、社会との関わりを断って隠遁する、というわけにはいかない。まあしかし、文芸世界の理想や高みを目指し、友と交わり、旨いものを食べて酒を飲むことを佳しとする根本の構造は同じである。文芸世界では優れた詩文を書ける=よき友、であるのが、社会に対して貢献できる力を持つ=よき仲間、であるぐらいの違いしかない。最近では、よき仲間と出会い、ともに仕事をし、ともに旨い酒を飲むために、仕事をしているような気もしている。

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