揖保川流域圏から網干をみる

神戸新聞に網干銀行の保存・活用の動きが取り上げられました。

われわれの活動は、まだこれからなので大変恐縮なのですが、大きく取り上げていただいております。みなさんの期待に応えられるよう、修士の河北とともに努力します。

まずは、揖保川舟運から龍野電気鉄道(1909-1934)への流れに着目し、網干港の流域圏・地域圏での役割を調べていきます。龍野電気鉄道が網干港への路線を開通させた後、網干銀行(1894年創業)は網干新在家に支店を設け、大正10(1921)年頃に本店として現在の建物を建てました。旧網干銀行と龍野電気鉄道には非常に深い関係があると考えています。それは遡って舟運も同様で、網干新在家は龍野藩脇坂家の所領であり、網干川には龍野藩の蔵屋敷が並んでいました。新在家本町通りにある片岡家も龍野藩南組15ヶ村の大庄屋でありましたし、網干のなかだけではなく、龍野との関係でみていかないといけません。

そして揖保川の流域の視点で見ていくと、幕府天領余子浜村の蔵元「加藤家」、一橋徳川家領日飼村の大庄屋「堀家」、丸亀藩領川東組の大庄屋「八木家」などの流通拠点であった有形遺産と、米や小麦、大豆、木材の生産景観、醤油や素麺の製造、漁業、工業の産業景観が、揖保川の恵みを軸とする、ひとつのストーリーでつながっていきます。

壮大なスケールの話ですが、兵庫には「銀の馬車道」プロジェクトの実例もあります。土木史と文化的景観のアプローチを合わせて研究を進め、地域圏の価値を再発見し、高めるストーリーと、地域圏創造ヴィジョンの方向性の検討を進めていきたいと思います。

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