2020年度
毎年3月は別れの季節であります。修論(卒論)に、プロジェクトに、邁進した学生たちが、共闘した仲間たちが、研究室から巣立っていきます。
本当におめでとうございます。
自らを律し、自らの探究心をもとに、いい研究を、よくやってくれました。
いろいろ教えてもらいました。ありがとうございます。
社会に出て、大いに羽ばたいてください。
私はこの成果を世に出す手助けを続けますので、
しばらくはお付き合いいただきます。
さて、最近つくづく思いますが、
ネット社会といえども、1人の人間に与えられた時間はかぎられており、
人との関わり、仕事との関わりには限界があります。
結局、「私」というものはその関係の中にこそあり、
その関係性こそが、私を、私のアイデンティティを、つくっているともいえます。
私が何か出来る範囲も、その関係の範囲に限られます。
近いほど濃くなる。遠いほど薄くなる。
どのような関係のなかで、私は世界をより良くしようとするのか。
それを自覚し、反省し、日々の意志決定をしていこうと思いました。
無味乾燥な競争社会の中に身を置くことも、生きるためにはやむを得ない側面がありますが、
そのかわりに、そこから逃れられる居場所が必要になるんだと思います。
そんなことを考えていると、ふと、最近話題のテリトリー論のことが頭によぎりました。
テリトリーというと、共同体的社会を思い起こします。
もちろん、歴史的にみて、土地をなかだちとする強固な社会的関係が築かれ、今も残っています。
土地は、生業・産業なり共同体なり、社会システムの基盤でしたから、その名残でしょう。
しかし、いまの社会システムはそれを部分的に受け継ぎながらも、土地にしばられない関係も築かれています。
では人々の社会関係はいま、どのようになっているのか。
個人の人生への影響や、土地と領域性の関係の変質を理解する必要があるでしょう。
そこにどんな課題があるのか。再編は必要なのか。再編が必要ならどうすれば可能なのか。
まちづくりとして、豊かに暮らすための場所の感覚やテリトリーをどう紡ぎ直すのか。
たとえば「ふるさと」という観念や活動は、そのひとつといえます。が、必ずしも自覚的ではありません。
脱線しましたが、研究室というのは、まさに「知縁」によって成り立つ間柄を生む、関係の場だと考えています。
経済競争や利益追求思考の枠の外にあって、創造・共創をめざし、そのための研鑽をする仲間としての縁。
これを大切にして、次の時代の価値創造に活かしてもらえればありがたいです。