ナラティブにおけるリアリティ
研究会の成果本の原稿が集まりつつある。非常に多様な視点からの論考がそろい、大変楽しみだ。
さて、「風景」という問題を扱う際にしばしば「主観性」の問題が取り上げられる。
景観の客観的な分析は、ギブソンなどの視知覚に関する研究成果を援用して、視覚的分析が進められてきた。が、それもある程度成熟しており、また違ったアプローチなり方法論が必要とされている。
主観に迫る分析も環境心理学方面で進められてきたけれど(不勉強できちんと追えていませんが)、視知覚現象の全体像を明らかにすることにはなかなか及ばない。
一方で、質的研究の方でナラティブ・アプローチが用いられている。これは世界を客観的に捉える実証主義的な考え方とは異なり、世界はそれを語る人間によって構築される、という考え方にもとづくものだとある人は書いている。
本のなかの僕の論考では、嵯峨野の名所を事例に、近世に生きる人々により物語と現実が一緒になって認識されている様子を書いている。これは、現代人から見るとフィクションとリアルがそこで結びついたと言いたくなるが、経験上の実態は渾然一体だったのではないだろうかとも思う。
そもそも現実は神話的世界・物語世界を含んでおり、それは経験上完全に分けられるものではない。
たとえば、古事記にみる神話の世界なども、かなりの程度リアリティをもって受け止められてきたのだと思うし、実際に現実に大きな影響をもたらしてきた。
こうした神話的な世界は身の回りにもあって、信仰をめぐる場所や祭りなどはその世界のなかで位置づけられるべきものである。
神話的世界でなくても、原風景というのも「語られる世界」のものだろう。故郷の風景に対する愛と、そこに「居る」ことの感覚もそうだ。
現実には摑み難いが、しかしそこにはリアリティがある。
対象-目的-目標を、図式的に整理してみるとこんな感じだろうか。
プラグマティック・アプローチ では、
世界の「真理」- 客観的理解 – 合理的判断
ナラティブ・アプローチでは、
世界の「意味」- 実感・リアリティの構築 – アイデンティティの獲得(個人・社会)
が対象-目的-目標となる。景観を運動論的視点からみるのであれば、ナラティブ・アプローチの方が、より効果的だろう。
日常のなかの神話的世界、語りの世界、のなかにある経験上のリアリティはどうしたら記述ができるのであろうか。ナラティブの世界は移ろいやすく、客観的実証が難しいが、景観計画などを考えるにあたってはナラティブのなかのリアルな感覚こそ重要な場合もあり、どうやって向き合うかが課題である。
その上で、「価値の形成」と「合意の形成」の間の往還、橋渡しが重要となってくるのである。
すなわち、ナラティブからプログマティックへの翻訳、さらには逆の翻訳が実際上、必要となるのだろう。計画とそのプロセスにおいてはこの視点が不可欠であると思われる。