風景と地域共治
『風景とローカルガバナンス』というシンポジウム@早稲田に参加。
「風景の劣化」を食いとめる主体は誰か、というのがテーマだった。
とてもバラエティーに富んだ話題で、刺激的な意見交換もあり、とても面白かった。
いくつかメモ書き程度に感じたことを書いておきたい。
「風景の劣化」という状況に対して、それは「我々自身の劣化」であるのではないか、
という問題提起があった。
風景は ”我々の生きる姿そのもの” であるから、まさにその通りだ。
ただ、風景、もしくは日本の風景、という形で、一般論化してしまうと議論はなかなか
見え難くなる。誰の誰にとっての風景であるかを一から考えていく必要があろう。
風景の規範は共同体のレベルで議論され運営されるべきだと考える。
我々自身の「劣化」をニヒリスティックに捉えたくはない。
無関心が規範の侵害を引き起こすなら、対話が必要である。
対話の契機さえつくれれば、風景(づくり)というテーマは、その営みを通じて
「アイデンティティ」という点で、自分自身を見直し、再構築するきっかけとなり得るし、
地域自治に資する主体形成のきっかけともなり得る。
ただ、風景というものが市民の「共通の関心事」となる地域がどの程度あろうか。
風景というコンセプトは万能ではない。対話のきっかけすら掴めないのが多くの地域の現状だろう。
なので、あまり楽観的に過ぎても、いけない。
我々には風景を守り・創るというミッションがある一方で、地域を守り・創るという
ミッションがある。
そういう点では、「風景」よりも「場所」の方が議論しやすい場合もあろう。
「場所」という概念以外にもあり得るだろう。
そのあたりの判断をどうするか。個人の考えやスタイルに還元してしまっていいのか。
もう少しラディカルに議論をつきつめていく必要があると思う。
いずれにせよ、僕自身は、風景や場所が共同体の形成や自立の鍵概念となると信じている。
一方で、その適用範囲の限界も感じているので、慎重に議論していきたいと考えている。
つまりはどういうケースにおいて風景を核に地域の議論を進めるべきか、
あるケースにおいてはこの議論からはじめる、
という判断のための根拠となる議論の蓄積を重ねないといけないと考えている。
そうでないと、単なる好事例集に終始する。
実際、われわれの議論は好事例の収集から抜け出せていないところがあるのではないか、
それはそれで重要であるが、と自戒をこめて思うところである。